大航海時代の豆知識

  ▼アルジェ海賊  ▼ オスマン帝国における宗教   ▼コンキスタドーレ  ▼カール5世(カルロス1世)のアルジェ親征  



 アルジェ海賊(バルバリア海賊) Corsairs and the Barbary Pirates

 アルジェ海賊(バルバリア海賊)とは、アルジェを中心とする北アフリカに根拠を持つ、フランス語で「コルセア 」と呼ばれた海賊たちの集団です。
 その成立は判然としませんが、イスパニアのレコンキスタによって土地を追われた人々が、寄り集まって海賊行為を始めたのが始まりとも言われます。
 アルジェ海賊の名が高まるのは、レスボス島から来た海賊王、バルバロッサ(赤髭)・ウルージ・レイス を迎えてからです。ウルージのもとで北アフリカのいくつもの都市、民族が陸軍も海軍も備えた一つの組織としてまとまるようになりました。
 ウルージの死後、弟のバルバロッサ・ハイレディン・レイス が後を継ぐと、アルジェ海賊は飛躍的に勢力を伸ばし、押しも押されぬ北アフリカの支配者となりました。
 ハイレディンはオスマン帝国のセリム1世、次いでスレイマン壮麗帝 の招聘を受け、アルジェ海賊はオスマン帝国の海軍力を担う事になりました。
 アルジェ海賊は形式的にはオスマン帝国に従属する一方で、フランス・イングランドなど各国の領事館が置かれ、オスマン帝国とは別に、独自で通商・軍事・同盟条約を結んだり、外交政策を行なっていたようです。オスマン本国で結ばれた条約の履行を巡って、オスマン本国とアルジェとが対立したこともあります。
 アメリカ合衆国も、独立後はアルジェに大使館を置きました。

 アルジェ海賊は、地中海を往来する商船や、時として軍船を襲い、積荷を強奪したり、乗組員を人質にして身代金を得たりしていました。また、人質たちは買い戻されるまでの間、奴隷としてすごしていました。
 これらは決してアルジェ海賊だけの専売特許ではなく、当時の地中海においてはどの勢力/国家においても行なわれていたことでした。
 奴隷の扱いについては、「非人道的なものであった」という証言もあれば、「当時のヨーロッパ諸国のいずれよりも人道的であった」とする証言もあります。

 アルジェ海賊の用いた船は、初期においてはガリオット、ブリガンティン、ガレーといった漕船が主流でしたが、ハイレディン時代の後半ごろから帆船が増え始め、ハイレディンが死去する頃には帆船は漕船の3〜4倍に達していたという駐アルジェ・イングランド大使の報告もあります。

 アルジェ海賊の勢力範囲は西地中海一帯でしたが、しばしば大西洋に乗り出し、マディラやカナリア諸島を寇略していました。また、1627年にはデンマーク、ドイツ北岸、アイスランドを襲い、1631年にはアイルランドのボルティモアを襲撃するなど、かなりの遠距離まで足を伸ばしていました。

 アルジェ海賊は綺羅星のごとく無数の優れた提督を生み出しましたが、その総司令官の質には時代によってばらつきがあります。それは、アルジェ海賊の司令官が、ハイレディンの後継者の時代、オスマン帝国の派遣知事の時代、アルジェ海賊自身による推戴の時代、といったように時代時代によって出自が違っていたからです。
 海の事など何も知らない金で官位を買っただけの水軍都督がアルジェに派遣されていた時代も長かったようです。

 オスマンの陸海軍が多数の宗派によって構成されていたように、否それ以上に、アルジェ海賊は多様性に富んだ構成をなしていました。
 ある時代の35人の艦長のうち、生粋のムスリムは14人に過ぎず、残りの21人は改宗者であったり、異教徒のままであった、とする研究もあります。
 現に、著名なアルジェの提督のなかには、キリスト教徒であったとも言われるアイディン・レイスや、ユダヤ教徒であった シナーン・パシャといった異教徒の姿を見る事ができます。
 他のイスラーム諸都市同様、アルジェにもキリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグがありました。ラ・ヴァレッテを始め捕虜経験のあるマルタ騎士の伝えるところでは、キリスト教徒の祭典も町を挙げて行なわれていたようです。






 オスマン帝国における宗教

 大航海時代華やかなりし頃のオスマン帝国は、その寛容の度合いによって十分に世界帝国を名乗る事の出来るものでした。
 先に述べたように、オスマン帝国の首都イスタンブールの人口の四割は異教徒 でした。イスタンブールはけしてイスラム教徒だけの町だったのではないのです。ギリシア正教、アルメニア教会派キリスト教 、ユダヤ教 コプト派キリスト教、マニ教、ゾロアスター教、マロン派、ネストリウス派キリスト教、さらには少数ながらカソリックもいたとされます。
 彼ら異教徒に対して、信仰の強制は行なわれず、税制面での待遇や布教に関わる制限などを除けば、イスラム教徒と異教徒との間に建前上ほとんど差はありませんでした。各宗教はそれぞれがミッレト (本義は宗教の意)という半宗教半行政の組織を持って、ある程度の自治を認められていました。

 ただし、政治や官僚の世界では、イスラム教徒と、キリスト教の一派であるギリシア正教徒 が大きな権益を握っていました。ルーム(ローマ人)と呼ばれたギリシア正教徒は、他の諸宗派にはない特権をいくつも持ち、 フェネリオトと呼ばれる貴族階級も有していました。ギリシア正教徒は陸にあっては一部の行政職を独占し、海にあっては帆船の軍人として活躍しました。
 イスタンブールにはギリシア正教の主教座が置かれ、初期にはオスマン皇帝みずからがギリシア正教の司教任命権をふるい、その保護に務めた時代すらあります。
 もちろん、この2つの宗派に属さないものでも、すぐれた才幹を示せば出世することができました。

 とは言え、 オスマン帝国はまぎれもなくイスラム国家です。イスラムのフェトバー(判決)は皇帝の勅命よりも重く、イスラムの教えをないがしろにすれば、皇帝が自ら任じた聖職者首座によって退位のフェトバーを申し渡されることすらありました。
 イスラム教徒に対して異教徒が改宗を勧めることは禁じられ、異教徒がイスラム教に改宗せずにイスラム教徒と結婚することも許されていませんでした。また、異教の教会の新設は許可制でした。
 異教徒が他の異教徒に対して布教を行なうことは許されていましたが、町中で教会の鐘を鳴らす行為はイスラム教徒にも鐘の音が聞こえる(=イスラム教徒への布教にあたる)として許されていませんでした。
 基本的に信仰は自由でしたが、例外的な宗教弾圧として、シーア派に対する弾圧事件が起きた事もあります。
  オスマン帝国の国教はスンニ派でした。キリスト教すら容認される社会において、同じイスラム教のシーア派だけが許されないというのは、一神教というものを考える上で重要な示唆を与えてくれるように思えます。

 一方のイスラム教の側からも、異教徒に対する強制改宗は認められませんでした。(そもそもイスラム法では強制改宗を認めていませんでした)
 その唯一とも言える例外が、デウシルメ制度 (デヴシルメ)でした。デウシルメはキリスト教徒の子弟を徴用して、イスラム教に強制改宗させて、行政や軍事の各方面に配属する制度です。この中から、当時世界最強の小銃歩兵部隊であったイェニチェリ 部隊が作られました。また、この制度を経て大宰相にまで上り詰めたものも多くいます。

 デウシルメ制度に関しては「現代の」イスラム法学者や歴史学者の間で正当性をめぐる議論があるそうですが、不思議な事に当時は正当性への疑義が出されていなかったようです。デウシルメで徴用されることが事実上出世への糸口であったために、反対の声が上がりにくかったのかもしれません。
 出世のための登竜門である以上、当然のように、時代がくだるにつれてデウシルメは形骸化し、その選定にコネが物を言うようになります。独身・一代限りが建前であったイェニチェリは事実上世襲化し、猟官運動の対象となって、その戦闘力は低下していきました。

 海軍に関わる話に戻りましょう。
 オスマン海軍のうち、帆船の乗員はルーム(ギリシア正教徒)がほぼ独占していたことには触れました。彼らの徴用は数年おきに行なわれ、その選定はルーム自身にまかされていました。具体的にはルームの長老がリストを作り、それに従って採用が決定されました。
 これにもまた、時代が下ると、デウシルメ制度同様にコネがものをいうようになり、才能や肉体の頑健さとは無関係に採用されるという弊害が発生するようになりました。
 これはルームのある種の特権のひとつとして、産業革命期まで残っていました。

 もちろん、繁栄は永遠に続くことはありません。
 大航海時代の終わりになると、オスマンの寛容さは次第に失われ、それとともにオスマンの国力も滅亡に向かって衰退していきました。そして崩壊する国家をつなぎとめようとして、イスラム色が強くなります。そしてそれが新たな対立や憎悪を生むという悪循環を起こしました。
 一次大戦の頃には、ギリシャ問題、アルメニア問題など宗派や民族による深刻な対立が起きるようになり、その波の中でオスマン帝国は解体されました。多種多様な民族や宗派がまとまって「オスマン帝国」を作っていた時代には、考えられなかったような種類の対立と憎悪とがオスマン帝国を滅ぼしたのです







 コンキスタドーレ(征服者)とは。 Conquistadores

 『大航海時代外伝』ではミランダ編のメインテーマともなるコンキスタドーレ。彼らは「キリスト教をあまねく世界に広める」、という大義名分をもって新世界(主に南北アメリカ)の征服に乗り出していった軍人冒険者たちのことです。
 その独善的な目標から容易に想像がつくように、彼らは行く先々で暴虐を働き、ネイティブアメリカンの文明をほぼ破壊しました。ラス・カサスやカベサ・デ・バカのような例外を除けば、彼らコンキスタドーレたちは欲望と正義感のおもむくままに、文字通りアメリカを征服しました。

 イスパニアは海外への征服活動で多くの文明を破壊し、多数の民族を疫病や奴隷労働で絶滅させました。現在のスペインの歴史教育では、この時期を次のように規定しています。
 ――レコンキスタが終了したばかりで国内には多くのエネルギーがはけ口を求めて渦巻いており、多数の武者や軍人、立身出世を求める者たちがそのエネルギーの発散先として海外への遠征に出て行った。
 とのことです。
 事実、エルナンド・デ・ソトのように、立身出世と富裕を求めて新大陸に渡ったコンキスタドーレたちは多くいました。イスパニアイベントのエドゥアルドも、あのまま進めばコンキスタドーレになっていたことでしょう。

 アメリカの最近の歴史教育では「侵略者」「略奪者」としてネガティブなイメージで語られることの多いコンキスタドーレたちは、発祥地のスペインでは英雄や勇者として扱われています。



 カール5世のアルジェ親征(1541年10月) Expedition of Charles V (Grand plan of Charles V)

 15世紀後半から16世紀前半にかけて、イスパニアの地中海権益は、アルジェ海賊によって圧迫され続けてきた。その流れに対抗して、チュニスなど地中海北アフリカへの攻略を強めるイスパニアのカール5世(神聖ローマ帝国カルロス1世)は、アルジェ海賊に対して決定打を放つべく、ハプスブルグ支配国の兵を以って彼らの本拠地アルジェを攻撃することを決意した。
 1541年10月大アンドレア・ドーリアに率いられたガレーを中心とする100隻以上の軍艦(500隻以上とする説もある、レイン=プールなど)は3万(2万4千という説もある)の陸戦部隊を乗せて、パルマからアルジェへ向かった。
 このアルジェ遠征には、海上では大アンドレア・ドーリアを筆頭に、コロンナ、スピノーラ、フェルナン・ゴンザーガ、ベルナディーノ・デ・メンドーサといった提督が参加。陸上では、若き日のエグモント伯エルナン・コルテスアルバ侯などが参加した。構成員はイスパニア、ハプスブルグ領低地諸国(ネーデルラントなど)、神聖ローマ、ハプスブルグ領イタリア、マルタ騎士団、そして少数の他のヨーロッパ諸国義勇兵からなっていた。

 この遠征については、戦力の集結時期が遅く(神聖ローマ帝国での会議が長引いたことも理由のひとつ)、ミンストレル(北風)の吹く季節となっていたことから、大アンドレア・ドーリアは翌年への延期を皇帝に申し入れた。しかし、カール5世は献策を容れず、出発を命じた。
 彼は、アルジェを守る兵が6千名しかおらず、しかも、海賊王ハイレディンが遠くイスタンブールにいて不在であることで勝利を確信していた。カール5世の旗艦にはイスパニアの貴婦人が戦見物のために同乗していたと言うほどの油断ぶりであった。

 この時、アルジェを守っていたのはハイレディンの腹心、サルデーニャ島出身の宦官ハサン・アガーだった。彼は水際での迎撃を避け、アルジェ城内に篭って反撃の隙をうかがった。
 上陸が行なわれたその日、ハプスブルグ軍は幕舎の設営もそこそこにアルジェ市への攻撃をおこなった。800人のアラブ・トルコ人と5000人のマグレブ人からなる防衛部隊は、この攻撃を耐え抜いたが、城壁には甚大な損害が出た。
 その夜、暴風雨がアルジェ一帯を襲い、テントの揚陸のすんでいなかった皇帝の軍隊は火薬の大半をぬらしてしまった。しかも兵らは雨風をさけることができず、一晩中雨風にさらされて疲労困憊してしまった。

 留守役ハサン・アガーは、これを反撃の好機ととらえ、城門を開いて打って出た。イタリア兵が真っ先に崩れ、援護に向かったはずの神聖ローマ兵が交戦せずに逃走すると、ハプスブルグ軍は潰走した。皇帝カール5世らは海岸にまで押し返された。
 前夜からの風はまだ続いており、海軍は接岸できず、テントや火薬といった物資は沖でむなしく腐っていた。
 皇帝の軍隊は風のやむのを待って数日を海岸ですごした。
 ハサン・アガーも4倍以上の兵力差で平地で決戦することの危険を知り、アルジェにもどって再び篭った。

 数日後、風がやむどころか、大暴風雨がおとずれた。
 「カール暴風」として歴史に名を残した嵐が発生し、海上の艦隊を翻弄し、その三分の一を沈めた。大アンドレア・ドーリアの直属の艦隊のみが沖に避難して嵐を耐え切った。この時、大アンドレア・ドーリアは、他の提督たちが放棄を覚悟で船を座礁させて嵐をやりすごそうとしたことに憤慨したと伝えられる。
 嵐は海岸の陸上部隊の士気も打ち砕いており、カール5世は「fiat voluntas tua.」(主の思し召しの儘に=神が暴風を呼んでわたしに撤退を促がしたのだ)とつぶやいてから、撤退を命じたという。
 カール暴風によって船の多くを失っていたため、船に積みきれなかった軍馬が放棄された。この時、カール5世は宝冠を海に投げ込んだともいう。

 この遠征を評した史家レイン=プールの「栄光のうちに始まり、屈辱のうちに終わった。」というフレーズは有名。



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